2014年4月21日月曜日

……久しぶりに更新します……


 
 三次旧石器文化研究会ブログをご覧のみなさま、大変にご無沙汰いたしておりました。

 私、当研究会会員でブログ担当の管理人です。当ブログの更新が何と3年半ぶり!ということになります。思い起こせば,この3年半,私個人様々なことがありました。世の中でも様々な事が起こり,激動の期間であったと感じております。会員のみなさまにおかれましては,すっかりご無沙汰の方も居られますがお元気でしょうか?

 さて,今回久しぶりの更新に際しての投稿は,当研究会代表の三枝健二氏についての話題です。

 すでにご承知の方もおられるかもしれませんが,今年2月,当研究会代表の三枝が広島県立歴史博物館を退職しました。それと相前後して同館発行の『研究紀要』に「中部備讃瀬戸採集の旧石器資料」という資料報告を出しました。

 その報告にあたり,管理人も本人から直接聞いた話がいくつかあるのですが,本文には出てこない内容も多いので,その一部をここで御紹介しようと思います。

 まず,今回報告されたこれらの資料ですが,なんと50年ほど前に採集したものだそうです。諸般の事情により,三枝氏自身も40年以上接することが出来ずに居たため報告が遅れてしまったそうです。

 彼は岡山県玉野市の宮田山と宮山に挟まれた場所で生まれ,小学校入学前に偶然拾った石器が市内に住む郷土史家の目にとまり,鑑定を受けたことがきっかけとなって採集を始めたとのことです。その郷土史家が,ちょうどその頃に宮田山遺跡を報告した杉野文一氏であったことを知ったのは大学入学後だったそうです。

 採集当時は今と違って子供がカメラなど持っている時代では無かったため,遺跡内での採集地点については断片的な記録しか残っていないようです。しかし,遺跡単位で採集時のまま保管されていたため,混入などは全くないそうです。後に,大学で鈴木遺跡(東京都小平市)の調査に参加し旧石器時代のユニット検出を体験した時,葛島で見た遺物の分布状況と酷似していたため絶句したとのこと,今なら絶対にカメラと平板とレベルを携えて行くのだが,とも云っていました。

 彼が育った岡山県玉野市から直島諸島にかけては,近代後半から金属精錬や造船などの工場が稼動し,その煤煙による公害によって広範囲な地域で植物が枯れる深刻な環境被害が起きました。宮田山や宮山を始めとした諸遺跡は,その公害による表土の流出により発見されたようです。昭和30年代後半における中部備讃瀬戸周辺の遺跡の状況は,本文中の各遺跡の記述からもその一端を窺うことが出来ます。

 現在では環境も復元され島嶼部には緑が戻っていますが,三枝氏によると,玉野市内から直島町内の随所に旧石器時代以降の遺跡立地に適した丘陵などの地形が所在しており,より多くの遺跡が存在する可能性が極めて高い。とのことです。

 尚,この報告は広島県立歴史博物館の『研究紀要』第16集に掲載されており,御入用の方は同館のミュージアムショップに連絡してください。

 この度の三枝氏の退職を転機として,当研究会も新たな段階に進んでゆけるものと思います。管理人も,内容は保証できませんが,仕事と休日の子守りや畑仕事の合間を縫って更新をしていきたいと思います。

 それでは,また,次の更新まで暫く失礼します。