三次旧石器文化研究会のブログをご覧の皆さまこんにちは。
朝晩寒くなってまいりましたが、如何お過ごしでしょうか?
何てなことを言ってたのが少し前のような気がしています。え、もう11月!!などと、ひとりで驚いたりなんかして・・・。
季節の移り変わりを、年々早く感じてしまう管理人です。
さて、今回の話題ですが、当研究会代表である三枝健二氏の講演会が開催されることとなりましたので、そのご案内をさせて頂きます。
この講演会は、広島市三滝地区での開催となります。
三次市・下本谷遺跡における最新の研究成果からみた同遺跡の位置付けなどについて、興味深い話が聞けそうです。
詳しくは、上記チラシの方をご覧ください。
以上、三枝健二氏講演会のお知らせでした。
三次旧石器文化研究会
2017年11月8日水曜日
2017年7月31日月曜日
三旧研アーカイブスお引越しです。
とんでもない熱い夏になってしまいました。。。
当ホームページをご覧のみなさま、ご挨拶が遅くなりました。
暑中お見舞い申しあげます。
こんな暑い日には、涼しいところにでも行きたいのですが、そうもいかず、ただ我慢の日々です。
さて、今日は三旧研アーカイブスに関して、見出しの通り、お引越しのお知らせをしたいと思います。
とはいっても、特にご不便をおかけすることは無く、ご覧いただくのには今まで通りPDFファイルとなっております。
今後とも、三旧研アーカイブス、三旧研ホームページをよろしくお願いいたします。
当ホームページをご覧のみなさま、ご挨拶が遅くなりました。
暑中お見舞い申しあげます。
こんな暑い日には、涼しいところにでも行きたいのですが、そうもいかず、ただ我慢の日々です。
さて、今日は三旧研アーカイブスに関して、見出しの通り、お引越しのお知らせをしたいと思います。
とはいっても、特にご不便をおかけすることは無く、ご覧いただくのには今まで通りPDFファイルとなっております。
今後とも、三旧研アーカイブス、三旧研ホームページをよろしくお願いいたします。
2017年2月4日土曜日
戸田正勝氏への追悼文
この度、岡村道雄様から戸田正勝氏への追悼文を頂きましたので、ここに紹介させていただきます。
戸田君の思い出
岡 村 道 雄
私が戸田君と最後に話したのは,2000.11.5に旧石器遺跡捏造が発覚して半年ほどたった頃に彼から来た私への抗議の電話だったと思う。栃木の七曲遺跡も捏造された「前期旧石器」だと皆が言うが,私に騙されたと言うのだった。彼とは三十年来の身近な付き合いだったが、捏造事件の勃発は、何人かの研究者仲間を私は失うこととなった。
彼がかつて國學院大學考古学科の四年生の時だと思うが,栃木市の星野遺跡第三次の発掘を見て(参加したのかもしれない) ,珪岩製旧石器の存在を確信したらしい。1971年春に芹沢長介先生に師事すべく,東北大学の研究生となった。彼は,私より一歳若かったが,すでに國學院大學の雑誌「若木考古」に「珪岩製旧石器」に関する論文を書いていた。私も大学院の受験に失敗して同年に研究生となり,それ以来,芹沢先生の門下生として前期旧石器,日本列島最古の文化を探求する同志となった。
その二年前,私が学部生となった1967年度の末に,考古学研究室・芹沢先生が岩宿遺跡のD地点を発掘した。先生は,史跡岩宿遺跡の下層から「珪岩製旧石器」が出ることを示して,それが人工品であることを立証しようとしたのだと思う。その岩宿Dの発掘資料が,1970年度の私の卒論の題材となった。芹沢先生の指導の下で進めていたその卒論のための出土品の整理・分析の最終段階では,私は多くの疑問を持ち,人工品かどうかを疑うようになった。
研究生を経て大学院に進んだ私は,東アジアには「珪岩製旧石器」とは違った,中国の周口店第一地点・丁村・許家窟・周口店第15地点,韓国の全谷里・石荘里などの石器文化の伝統があり,相沢忠洋さんが岩宿の発見のころに見つけていた不二山・権現山・桐原の石器は,相沢証言による層位的な裏付けによれば,東アジアの石器伝統と一致すると思った。そして両者は同じ足尾山塊の西麓に位置し,同-層準にありながら全く異なる包含層の層相と成因,石器の顔付を持っており,「珪岩製旧石器」は自然破砕礫ではなかろうかと思った。
その問題を解決するために戸田君と連れ立って,北関東で新たに確実な石器を見つけるため踏査し、佐野市後藤遺跡などの採集品を実見して歩いた。1973年の夏に芹沢先生の口添えを得て,相沢さんを口説いてトタン屋根の小さな平屋だった相沢研究所で,戸田君と不二山などを観察し,相沢夫人も後押ししてくれて二晩ほとんど徹夜して実測まで取らせていただいた。
口数の少なかった戸田君は,多くを語らなかったけれど,このころには「珪岩製旧石器」を否定的に考えていたと思う。1975年には彼の地元(茨城県結城市出身)の野州史学会に入会し,「野州史学」第二号に芹沢門下生として初めて「珪岩製旧石器」を批判する論文を書いた。1974年度まで東北大学に研究生として在籍した戸田君は,それまで研究室が主催した岩手県碁石遺跡,星野遺跡第四次,北海道聖山遺跡などの発掘に私などと共に参加し,碁石・星野などの遺物整理や報告を共にした。そして,1974年の夏から始まった東京都小平市鈴木遺跡の発掘に専従し,近所のアパートに住んで鋭意発掘に携わった。
特に1973年から武蔵野台地最下層・X層の良好な石器群が相次いで出土し,最古の後期旧石器群を遡る列島最古文化の探究は,続いた。私も「珪岩製旧石器」と後期旧石器との不連続性が,前期旧石器に疑問を持った一根拠でもあったので,このころ関東で隆盛を迎えていた後期旧石器にも関心を広げていた。JR中央線の武蔵小金井駅で降りて,バスで鈴木遺跡に行って発掘成果を見せていただき,関東の情報に耳を傾け,戸田君のアパートにしばしば泊めてもらった。戸田君が小平市の職員として鈴木遺跡を調査し続けた後も,東京で開かれる学会や文部省科学研究費の研究会などで上京する折には,彼の所に泊めてもらうことも多かった。
私が1987年から文化庁に勤めた頃には,彼は栃木市大平にある国学院学栃木大短期大学の博物館学芸員となり,栃木県北を踏査して表採していた。古そうな石器を文化庁に持ってきては,私の意見を求めていた。栃木県那須町七曲もそのうちの一地点であり,1990年春の連休には私も息子を連れて一度踏査に参加したこともあった。その折,藤村新一も呼ばれていて,露頭から石器を「発見」した。それを契機に露頭から十数点石器を抜き取り,戸田君もすっかり藤村に騙されてしまった。なお,私が編集委員も務めていたニューサイエンス社から,1995年に彼の代表作「考古学ライブラリー 旧石器」が刊行された。
そして捏造が発覚した。
戸田君がいつごろから三次市の下本谷遺跡配水池地点の石器群に関心を持ったかは知らないが,列島最古の石器群を真摯に追求したー生だったと思う。
捏造が発覚して今年で16年が経った。福井洞窟の下層が後期旧石器の範囲だったこと,またその後に最古と主張されている伊勢崎市の鶴ヶ谷東,島根県の砂原は,大方の理解が得られていない。捏造以前の前世紀に研究状況は,戻ったままのようだ。あの世で戸田君に報告できるような確かな最古石器文化は,どこに埋もれているのだろうか。
(2016.12)
以上、今回は岡村道雄様から頂きました戸田先生への追悼文をご紹介しました。
当研究会代表の三枝健二氏によると、三枝氏もこれまで詳しくは知らなかった戸田氏の大学時代以降の岡村氏との交流や、研究経緯などに触れることが出来たとの事です。
文中からも戸田正勝という研究者の真摯な研究姿勢を垣間見ることが出来ました。
この度は、貴重な追悼文を頂き誠に有難うございました。
戸田君の思い出
岡 村 道 雄
私が戸田君と最後に話したのは,2000.11.5に旧石器遺跡捏造が発覚して半年ほどたった頃に彼から来た私への抗議の電話だったと思う。栃木の七曲遺跡も捏造された「前期旧石器」だと皆が言うが,私に騙されたと言うのだった。彼とは三十年来の身近な付き合いだったが、捏造事件の勃発は、何人かの研究者仲間を私は失うこととなった。
彼がかつて國學院大學考古学科の四年生の時だと思うが,栃木市の星野遺跡第三次の発掘を見て(参加したのかもしれない) ,珪岩製旧石器の存在を確信したらしい。1971年春に芹沢長介先生に師事すべく,東北大学の研究生となった。彼は,私より一歳若かったが,すでに國學院大學の雑誌「若木考古」に「珪岩製旧石器」に関する論文を書いていた。私も大学院の受験に失敗して同年に研究生となり,それ以来,芹沢先生の門下生として前期旧石器,日本列島最古の文化を探求する同志となった。
その二年前,私が学部生となった1967年度の末に,考古学研究室・芹沢先生が岩宿遺跡のD地点を発掘した。先生は,史跡岩宿遺跡の下層から「珪岩製旧石器」が出ることを示して,それが人工品であることを立証しようとしたのだと思う。その岩宿Dの発掘資料が,1970年度の私の卒論の題材となった。芹沢先生の指導の下で進めていたその卒論のための出土品の整理・分析の最終段階では,私は多くの疑問を持ち,人工品かどうかを疑うようになった。
研究生を経て大学院に進んだ私は,東アジアには「珪岩製旧石器」とは違った,中国の周口店第一地点・丁村・許家窟・周口店第15地点,韓国の全谷里・石荘里などの石器文化の伝統があり,相沢忠洋さんが岩宿の発見のころに見つけていた不二山・権現山・桐原の石器は,相沢証言による層位的な裏付けによれば,東アジアの石器伝統と一致すると思った。そして両者は同じ足尾山塊の西麓に位置し,同-層準にありながら全く異なる包含層の層相と成因,石器の顔付を持っており,「珪岩製旧石器」は自然破砕礫ではなかろうかと思った。
その問題を解決するために戸田君と連れ立って,北関東で新たに確実な石器を見つけるため踏査し、佐野市後藤遺跡などの採集品を実見して歩いた。1973年の夏に芹沢先生の口添えを得て,相沢さんを口説いてトタン屋根の小さな平屋だった相沢研究所で,戸田君と不二山などを観察し,相沢夫人も後押ししてくれて二晩ほとんど徹夜して実測まで取らせていただいた。
口数の少なかった戸田君は,多くを語らなかったけれど,このころには「珪岩製旧石器」を否定的に考えていたと思う。1975年には彼の地元(茨城県結城市出身)の野州史学会に入会し,「野州史学」第二号に芹沢門下生として初めて「珪岩製旧石器」を批判する論文を書いた。1974年度まで東北大学に研究生として在籍した戸田君は,それまで研究室が主催した岩手県碁石遺跡,星野遺跡第四次,北海道聖山遺跡などの発掘に私などと共に参加し,碁石・星野などの遺物整理や報告を共にした。そして,1974年の夏から始まった東京都小平市鈴木遺跡の発掘に専従し,近所のアパートに住んで鋭意発掘に携わった。
特に1973年から武蔵野台地最下層・X層の良好な石器群が相次いで出土し,最古の後期旧石器群を遡る列島最古文化の探究は,続いた。私も「珪岩製旧石器」と後期旧石器との不連続性が,前期旧石器に疑問を持った一根拠でもあったので,このころ関東で隆盛を迎えていた後期旧石器にも関心を広げていた。JR中央線の武蔵小金井駅で降りて,バスで鈴木遺跡に行って発掘成果を見せていただき,関東の情報に耳を傾け,戸田君のアパートにしばしば泊めてもらった。戸田君が小平市の職員として鈴木遺跡を調査し続けた後も,東京で開かれる学会や文部省科学研究費の研究会などで上京する折には,彼の所に泊めてもらうことも多かった。
私が1987年から文化庁に勤めた頃には,彼は栃木市大平にある国学院学栃木大短期大学の博物館学芸員となり,栃木県北を踏査して表採していた。古そうな石器を文化庁に持ってきては,私の意見を求めていた。栃木県那須町七曲もそのうちの一地点であり,1990年春の連休には私も息子を連れて一度踏査に参加したこともあった。その折,藤村新一も呼ばれていて,露頭から石器を「発見」した。それを契機に露頭から十数点石器を抜き取り,戸田君もすっかり藤村に騙されてしまった。なお,私が編集委員も務めていたニューサイエンス社から,1995年に彼の代表作「考古学ライブラリー 旧石器」が刊行された。
そして捏造が発覚した。
戸田君がいつごろから三次市の下本谷遺跡配水池地点の石器群に関心を持ったかは知らないが,列島最古の石器群を真摯に追求したー生だったと思う。
捏造が発覚して今年で16年が経った。福井洞窟の下層が後期旧石器の範囲だったこと,またその後に最古と主張されている伊勢崎市の鶴ヶ谷東,島根県の砂原は,大方の理解が得られていない。捏造以前の前世紀に研究状況は,戻ったままのようだ。あの世で戸田君に報告できるような確かな最古石器文化は,どこに埋もれているのだろうか。
(2016.12)
以上、今回は岡村道雄様から頂きました戸田先生への追悼文をご紹介しました。
当研究会代表の三枝健二氏によると、三枝氏もこれまで詳しくは知らなかった戸田氏の大学時代以降の岡村氏との交流や、研究経緯などに触れることが出来たとの事です。
文中からも戸田正勝という研究者の真摯な研究姿勢を垣間見ることが出来ました。
この度は、貴重な追悼文を頂き誠に有難うございました。
2017年1月1日日曜日
謹賀新年
明けましておめでとうございます
2017年、初投稿、ブログ始めの管理人です。
昨年中は、当ブログをご覧頂きありがとうございました。
今年は酉年ですね。三旧研会員の皆様はじめ、ご覧いただいております皆様方にとって、幸せな一年でありますよう心よりお祈りいたします。
三旧研ブログ管理人
2017年、初投稿、ブログ始めの管理人です。
昨年中は、当ブログをご覧頂きありがとうございました。
今年は酉年ですね。三旧研会員の皆様はじめ、ご覧いただいております皆様方にとって、幸せな一年でありますよう心よりお祈りいたします。
三旧研ブログ管理人
2016年12月4日日曜日
三旧研アーカイブス更新しました!!
当ブログをいつもご覧いただきまして有難うございます。
いよいよ今年もあと1か月を切りました。本当に早いですね。年々早く過ぎるように感じる1年ですが、今年もあっという間でした。
みなさまにとって、今年はどのような年でしたか?
さて、今回師走のはじめにお届けするのは、三旧研アーカイブス更新の情報です。
三旧研メンバーによる論文や資料報告などなど、気軽な投稿の場として設置した三旧研アーカイブス。みなさまご覧いただいていますでしょうか?
そんなアーカイブスの最新投稿として、当研究会代表の三枝健二氏が発表されましたのでご紹介いたします。
今回のタイトルは
です。
三枝代表の地道な研究姿勢には会員一同いつも頭が下がります。同時に「我々も!・・・」と発奮させて頂く思いです。
是非皆さんご覧になってくださいね!
いよいよ今年もあと1か月を切りました。本当に早いですね。年々早く過ぎるように感じる1年ですが、今年もあっという間でした。
みなさまにとって、今年はどのような年でしたか?
さて、今回師走のはじめにお届けするのは、三旧研アーカイブス更新の情報です。
三旧研メンバーによる論文や資料報告などなど、気軽な投稿の場として設置した三旧研アーカイブス。みなさまご覧いただいていますでしょうか?
そんなアーカイブスの最新投稿として、当研究会代表の三枝健二氏が発表されましたのでご紹介いたします。
今回のタイトルは
三枝健二 「北部アフリカの前期旧石器資料などについて」
です。
三枝代表の地道な研究姿勢には会員一同いつも頭が下がります。同時に「我々も!・・・」と発奮させて頂く思いです。
是非皆さんご覧になってくださいね!
2016年11月20日日曜日
続・戸田正勝先生に捧ぐ
晩秋を迎え、鮮やかに色付いた紅葉が、幹から地面へとその場所を移しつつあります。もうすぐ師走。年の瀬を前にし、次の祝日(勤労感謝の日)あたりはつかの間の休息日となりそうです。
さてタイトルの通り今回は前回に続き、「続・、戸田正勝先生に捧ぐ」と題し、昨年お亡くなりになられた戸田先生に対し、三旧研会員から先生に向けての追悼メッセージをお送りいたします。
戸田先生
ご無沙汰しています。
大学を退職された時これからは前期旧石器三昧で研究を楽しみます 、お手紙頂きましたよね。
本物を見てますか? きれいだとか素敵だとかいう気持ちを大切にして本物の石器を見な さい、と電話で話してくだいましたよね。
そして下本谷の石器を真面目に厳しく研究している三枝さんからし っかり学びなさい、と。
今回の講演について、戸田先生はどうおっしゃるでしょう。 きっとその前に私が「やりましたよ!」 とガッツポーズで叫ぶのを笑われるでしょうね。
先生に、心ふるえる内容の講演でしたと伝えたかったです。
講演のリポートとは言えませんが、 私Mの心のリポートを投稿します。
さてタイトルの通り今回は前回に続き、「続・、戸田正勝先生に捧ぐ」と題し、昨年お亡くなりになられた戸田先生に対し、三旧研会員から先生に向けての追悼メッセージをお送りいたします。
戸田先生
ご無沙汰しています。
大学を退職された時これからは前期旧石器三昧で研究を楽しみます
本物を見てますか?
そして下本谷の石器を真面目に厳しく研究している三枝さんからし
今回の講演について、戸田先生はどうおっしゃるでしょう。
先生に、心ふるえる内容の講演でしたと伝えたかったです。
講演のリポートとは言えませんが、
2016年11月12日土曜日
戸田正勝先生に捧ぐ
長く國學院大学栃木短期大学に奉職され、三次旧石器文化研究会会員であった戸田正勝先生がお亡くなりになって1年が経過いたしました。
当研究会ブログでは、先生の一周忌にあたり、会員のみなさまから追悼のメッセージを募りました。今回はその中の一つをご紹介させて頂きます。
戸田先生がこの世を去られて、早いもので1年が経過しました。
昨年末、御家族からのお葉書で突然の訃報を知り、ただただ驚くばかりでした。
三次へいらした時の先生のお姿は忘れられません。
何も分からない素人の私にも、丁寧に質問に答えて下さるお姿は、偉大な研究者とは思えない程のお優しい方でした。
まだまだお元気で御活躍して頂きたかったです。とても残念でなりません。
戸田先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
三旧研会員 より
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